『構造と力』、まじで僕がなんとかしてほしいと思ってる領域に1mmもかすらないで駆け抜けることで、逆説的に指針になったわけわからん本
「近代社会はそれ自体カオスの吸収装置とでも呼ぶべき仕組みになっており、侵犯のエネルギーをなし崩しに回収してしまう。カオスの噴出による祝祭的革命というイメージは美しいが、ひとたび脱聖化された社会に祝祭の興奮を呼び覚ますことは絶望的に困難である」
という感じの文章があるのだが
カオスの噴出や審判に十全に幻惑などされないが、かといって脱聖化された社会に積極的にコミットする気にもならず、自らに立ち止まるしかない主体、というものは想定していないのだろうか
あえて「変化しないこと」にコミットすること