水星の魔女ネタバレ?総評
同時にそれは、若さゆえの無力さと真摯さいう一点で全てを並列にする力技によったモノでもあり(その無力さを助けるのが魔法なのはYAの王道だけど)、大人への赦し(それは奇跡を通して行われる)と裏腹にある大人世代への徹底的な絶望と罪悪感によって成り立っている物語でもあり、その徹底した絶望は社会や大人の変化を期待しないことによって、全てを免責するものとして立ち現れる。
そこではもはや先から受け継がざるを得ないもの=呪いは諦めと共に背負わされ、諦めと共にその存在が許容される。その中で赦しは諦めとして立ち現れていた。
魔女たちの、魔女にされたものたちの怒りは、行き場なく彷徨い、それゆえに自ら魔女になったものによる奇跡が和解に要請される。
そしてそこではキャリバーンは魔女の奇跡を助ける都合のいい機械となる。
水星の魔女ネタバレ?総評
そうした若い世代の特異性の象徴として、そして若い世代の中でも特殊な存在の象徴として、スレッタとミオリネの同性愛的な描写があるのだけど、同時に同性愛を作中社会の中で特別なものとして描かない真っ当さが、その同性愛の象徴化という問題性と異常さをむしろ浮き彫りにしていて、同性愛を作中社会では当たり前のものとして描けない(そして主人公であり第一話では視聴者の視線を導入するスレッタはそれに驚くという形で現実との重ね合わせがある)結果として、ここでまた妙な真っ当さの結果あらゆる恋愛関係が平等に暗示にとどまるという描写が出ているのかもしれない(でも結婚して子供はうまれる)。ただそれは作品内で完結しているかに見える作中描写が、実のところ現実における偏見や思い込みを利用していることで裏切られるのだけども。
ただ、同性愛を当たり前として描こうと少なくとも試みたこと(少なくとも作中人物は誰も否定や差別をしない。それはそれで不思議とうか曖昧な誤魔化しでもあるけど、曖昧さによる和解の成立という点で一貫してるのかも)、そういう真っ当さはキャラクターデザインの多彩さに現れていて、その点は美点でもあると思う。