『水星の魔女』の一番の懸念は、結局これは既存のシステムが様々なもの(対立していたものも)包摂するようなシステムになり得る可能性を、お互いの歩み寄りを示すとことで終わるのかな、と言うところで、
それは結局、本当は包摂できる自分たちのこの社会という、ある種の社会を構成する自分たちの肯定の物語になるのではないか、と言う懸念なのですね。
資本主義の論理に潰されていたミオリネが、資本主義のルールに乗ることでうまくいっているように見える描き方は、その象徴でもある。
これは多分小林監督がやってきた、若年層が組織の中で抑圧された結果として持つ自他を巻き込む有害さを、どうやって解消するか、をテーマにした青春ものの流れにもあるのだと思うのですが…。
一方でそれでは治らない話はたくさんあって、それはたとえば、水星の世界では同性愛は偏見を持たれるものではないけど、しかし視聴者や視聴者が生きる世界(脚本もそのように思える時があって、それは作り手も同じであることを示唆する)はそうではない、と意識して描かれる作劇であったりする。
あるいは、そのような包摂があってもジェンダー化された役割に基づく悪さが様々なところで意識的に描かれていて、この二つの間の矛盾であるとか。それはミオリネのトロフィー性がジェンダーと関わっているのかが、