:hyuki: 文章はその都度その都度書く/不完全なものを恐れない/少し未来の自分と言う逃げ水

私はしばしば、「文章はその都度その都度書いたほうがいい」という話をします。

どういうことかというと、「自分はまだ勉強が足りないから、もっと勉強してから書くようにしよう」という考えはあまり重視しない方が良いという意味です。

そうではなくて、自分が現在理解していることや、自分が現在感じていることを、たとえ不十分でも構わないから、自分の今の言葉で書き表してみることが大切だ、ということです。

「充分準備ができてから」という気持ちは決して悪いものではありません。しっかり勉強したり、丁寧に観察したり、あるいは充分そのときを楽しんだりということですから。

でも、それが行き過ぎるのは良くありません。「充分準備ができてから」と言っているうちに、いつまでたってもその準備ができるときが来ないことがあるからです。

よく私が思うのは、自分は生きているということです。そして、生きているというのは自分が変化するということです。自分が見たり聞いたりあるいは考えたりすることで、自分は変化していきます。変化することによって学んでいくわけですけれど、最初に感じたものが失われていくと表現することもできます。

そしてまた自分の「これで充分準備ができた」と感じるレベルもまた変化しているわけです。これは全て自分が生きていることから生じる現象です。

たとえて言うならば、それは、少し未来の自分という逃げ水を相手にしているようなものです。逃げ水に追いつくことが絶対にできないのと同じように、少し未来の自分に追いつくことも絶対にできません。

こんな風に言うこともできるでしょう。文章を書くというのは、どこまでいっても不完全なものだと。

不完全な自分の理解の現時点でのスナップショットを取ろうとしている。それが文章を書くことだと。

より良いものや、より完全に近いものを求めて、文章の練習をしたり、よく考えたりすることが悪いわけではありません。

そうではなくて、不完全なものを提示することを恐れるあまり、いつまでたっても何も書き上げることができないことがまずいのです。

大変よくあることですけれど、実際に書いてみて初めて理解が深まることがあります。書くこと自体が学ぶことであり、しかも現実世界に立脚して学ぶことにつながっています。ですから、大変逆説的なことですけれど、不完全なものを恐れずに書くことなくては、完全なものに近づくことすらできないとも言えるでしょう。

私はこのことを、毎日のように実感しています。実際に書いてみて、初めて自分の理解がいかに不十分なものであるかがわかるということです。自分がいかに不十分であるか、また自分がいかに間違いを犯すものであるかがわからないうちは、どうしても間違いを修正したりすることはできないのです。

この文章を読んでいる人が、どんな人かは私にはわかりませんけれど、もしもあなたが、不完全なものを作ることを恐れるあまり、手を動かすことが全くできないでいるならば、その習慣を少しだけ緩めてみることをお勧めします。

#結城浩のひとりごと

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たぶん,物書きの人とエンジニアでは「書く」ことの意味が違うんだろうけど,結城浩さんのこれを読んでいて連想したのが「技術的負債」というやつ。

「技術的負債」にはとかくネガティブなイメージが付きまとうが,「技術的負債」とは過去に置き去りにされた不合理性や不具合のことではなく,「より早く実現するために引き換えにするもの」という意味らしい,本来は。

製品の実現のために技術的な借金をするみたいなもので,だから金融用語の「負債」になぞらえているわけだ。
text.baldanders.info/remark/20

で,ソフトウェア製品あるいはサービスというのは「理想形」はあっても「完成形」がない。何故なら要件は常に変わるから。故にソフトウェア製品開発では「イテレーション」の管理がとても重要になる。言い方を変えると,イテレーションを止めてしまった時がその製品・サービスの寿命ということになる。

件の文章の「少し未来の自分という逃げ水」はソフトウェア製品開発に喩えるなら目指すべき「理想形」であり企業で開発している場合は経営者が従業員に示す「ビジョン」でもある。でも「理想形」や「ビジョン」ってのは迫れば迫るほど逃げていくんだよね。まるで斥力が働いてるかのよう(笑) [参照]

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