ところが、映画の前半では悲鳴や焼却炉の轟音にあれほど感じていた違和感や不快さが、映画が進行するにつれて、徐々に薄れ、慣れ、感覚が麻痺していく。ヘス一家のように。それを自覚したとき、ぼくらはもはや傍観者ではいられなくなる。が、これはおそらく監督の意図ではないだろう。というのも、慣れるやいなや、たびたび感覚を引き戻すかのように差し挟まれる、ブラックアウトやレッドアウトによって、背後に退いた音を再度不快なものとして観客に意識化させることが、その狙いであったように思われるからだ。そうするとやはり、傍観者という観客の特権的なポジションが気になってくる。
『関心領域』は明らかに、ホロコーストの表象不可能性をめぐる一連の議論を踏まえているわけだが、それを、人びとの「関心」の問題にスライドさせているところに今日的な批評性を感じる。が、画面をリヒターのように塗りつぶす現代美術的な手法——リヒターのようなトラウマの問題ではなく、あくまでも音を前傾化させる効果として用いられている——が観客の主体性、その自覚を挫いているように思う。