フォロー

公共倫理的に肯定されない「欲望」については、内心の自由について認められるべきだし、「表現」については、人権と衝突しない限り認められるべき。そのうえで「行為」は人権侵害になるのでこれを厳しく制限する。うち、「表現」については白黒つけるのではなく、適切なゾーニングなどで対処する。
この考え方、90年代、2000年代のコミケで養われたので、あの催しの影響は大きいなあ…

· · SubwayTooter · 1 · 8 · 10

問題はどこからが「行為」か、なんだよね。実在する人間の名前を出して「好み」と話すことは。オリジナルの小児性愛マンガに容姿のモデルがいたら。本人は何気なく眺めたものが、相手にとっては「まなざす」行為になってたら。コミケで頒布されている幼児番組のR18本を「描く」行為は。ラブドールを所有することは。
繊細かつグレーなものに踏み込むし、この本能的におぞましいと拒絶する声のほうが圧倒的なので、白黒はつけず、個人と公共(倫理)の話にフォーカスしたほうがたぶん良い。

ので、性教育と人権教育をしっかりして、公共倫理の概念を大事にしましょう、という結論になる。基本はなにより人権教育

日本的な「ポリコレ」も公共倫理という枠なわけだけど、表現の自由戦士が公共倫理を否定するのがな…

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。