おばさんの思い出 長文(弔文)
わたしはばあちゃん(祖母)も好きだったが、おばさん(母の兄の配偶者)も好きだった
ばあちゃんもおばさんも、わたしには優しかった
でも、ばあちゃんが死んだ時に、おばさんはばあちゃんのことをボロクソに言っていて、わたしは「ちょっと嫌だな」と思った
でも、その後分かった
ばあちゃんは、孫であるわたしには優しかったが、超超超絶クソ姑だった
わたしのいとこ(=おばさんの子ども)は自由に自分の子どもを育てられなくて「小学生になってもよだれ掛けをつけさせられて学校に通わされていた」と言っていた
意味、分かりますか?
わたしは、分かりませんでした
マジ意味不明
わたしの母の親、つまりおばさんにとっては義理の親は地元のちょっとした有名人(もどき)だった
9LLDKの自宅兼事務所をおばさんはひとりで掃除していた
盆暮正月には、30人くらいの人が詰めかける
それを、ばあちゃんとおばさんと親戚がずっとずっと台所に立って支度をしていた
何十年も前の話だ
わたしもおにぎりを作ったり、麻雀をやっているおじさん達(みんなタバコを吸っていて臭い)にビールを注いだりしていた
おじさん達に触られたり、無理やり膝に乗せられてるのに「いいな〜、グリ子は可愛がってもらって」って言われていやだった
おばさんの思い出 長文(弔文)
おばさんはわたしをドライブによく連れて行ってくれたが、ふたりになると、車の速度計がキンコンキンコン音を立てた
時速120kmで田舎道を走っていた
わたしは、本当は、そんなのイヤだった
でも黙っていた
おばさんの車は、魚が腐った匂いがした
今でもありありと思い出せる
じいちゃん(=おばさんにとっての義理の父)が水産加工業をやっていたから、鮭とかホタテとか、海産物の汁がトヨタの頑丈な車の車体に芯から染み付いていた
おばさんはわたしより身体が小さい
ある日おばさんは足を骨折した
休ませてください、とおばさんは訴えたのに、ばあちゃんは車が運転できないから、骨折の痛みに耐えてじいちゃんを送迎したと言う
おばさんは泣いていた
わたしも泣いた