読む無量空処
みんな違うけどたまに似てるし、変に「同じ」で塗りつぶそうとするところに無理が生じるわな。
「共感」は「自分が同じ状況ならこう」としか示せないし、それが違ったら違ったで互いに(それぞれにとって)新たな感じ方を知れる良い機会ではあるし、似てるなら似てるで「こんなところでお互い異なるはずの自分たちが似てるなんて面白いね」かなって思ってる。
まあそもそも、異なる存在者AとBとの内心の一致をどう判断するのか(他者の心の可知性)という問題があるけど、そこは便利な言語ゲーム。実際になされたコミュニケーションのなかで(ということはつまり先行して両者を同定することとは区別されて)「一致しているってことに現実としてなったかどうか」という問いに読み替えられる(……よな?)。
そこで一方による他方の言葉の意味のいわば「決めつけ」(意味の占有)がなされる、コミュニケーション的暴力(feat.三木那由他)がふるわれることもあるのが難しいところ。(なお、二者間のコミュニケーションをここでは想定している。)
そりゃあ抑圧された側としてはたまったもんではない。ただし、その支配/抑圧は必ずしも属人的性質として理解されるるべきではなく、非人称的な、流動性をもちうる。誰しもが支配する側になりうる。
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@rolling_riceball インフレ!!