「映画にわか」なる人のことは知らなかったが、なんか興味本位でnoteを読んでしまった。なんというか、知識不足なのも見て取れるけどそれ以前の問題として持論のロジックの組み立てが破綻してて、情念だけで突っ走ってなにもかも飛躍しまくりに見える。こういうの、雑誌に記事書いてるようなライターにもいるけどね。
『卒業』に露骨な性描写がないと言うが、『愛のコリーダ』レベルまで行かないとセックス表現と言っちゃいかんのか(だいたいミセス・ロビンソンとの情事やストリップバーのシーンとか十分「露骨」だと思うのだが)?
『暴力脱獄』の主人公は一切暴力的抵抗をしないと言っているが、暴力に対する非暴力的抵抗を描いたものなら、それは暴力がテーマと言って何の差しつかえもないだろう。あとふつうにニューマンはジョージ・ケネディ殴ってたし。
ずっとこんな調子。
上の3つの映画の暴力描写をないがしろにするのはさすがにナンセンスの極みだし、暴力やセックス以外の魅力やテーマが映画に存在したとしてもそれは「暴力や性の描写が特徴」という命題を否定することにはならない。「"ニュー"シネマ」って言うぐらいだからヘイズ・コードとかのからみで時系列的な新規性として暴力描写や性描写を特徴としているのは簡単に読み取れそうなのに、そういうのすらわからず「のちの『ダイ・ハード』の暴力描写の方が露骨」とか素っ頓狂すぎることを言っている。
エルビス・プレスリーは出てきたときに表現が性的に過激だったと言われていたんだけど、「現代のアーティストの表現の方がエルビスに比べて圧倒的に過激」って言って「エルビスの特徴は過激なセックスアピールではない(他の魅力もある、バラードも歌ってるし)」とか言い出すようなもんでしょ。
一時が万事こういう調子でにわか氏の脳内のルールや感想でしかないようなものを飛躍した論理で一般化しようとしてるんだよ。そしてその飛躍を穴埋めするかのように論敵に対する中傷や嘲りを入れるんだ。こういうタイプの人、たまにいるし、一番キライなんだ。キライ過ぎて無駄な長文を書いてしまった。
単なる『暴力脱獄』の話になるけど、ゆで卵食べた後にルーク(ポール・ニューマン)がキリストになってるのとか、ラストシーンで十字路を十字架に見立ててるのは最初に見た時からさすが気付いてたが、ルークが脱獄に成功した後、なぜか雑誌に美女をはべらせたルークの写真が載っててそれをジョージ・ケネディが嬉しそうに見ているシーンで、横のページの銃の広告のライフルの銃口がちょうどルークの方を向いていることは3回目の視聴くらいで初めて気付いた。