“「ルールがあり、私たちはそれを守らねばならない」という二項関係に基づく認知を、「ルールがあり、それを守らない他者がいて、それを守ってほしい私がいる。」という三項関係に基づく認知にどう脱中心化できるかどうかの問題だと思う。”

なるほど〜😳
ルールのある世界に立っている、ルールを守らない他者(この人の事情は不明)と、ルールを守ってほしい私の関わりの問題と考えると、心の中の「即座に厳しく指摘しないと!」という気持ちは薄まるかも🦆

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→タイムライン眺めていると、他者の失言にレゴブロックを眺めるような上から視点で、どうのこうの言いたくなってしまうんだけど、「他者の言動について改めて欲しいと思っている自分」という登場人物として自分もそこに立ってるんだよなあ

→どこで読んだか、

育児で子供と対立してどうしても腹が立つ時に、「腹を立てている自分」中心の視点から「子供」中心の視点に転換するのがいい。世界は「わがままな子と親」か「子の事情に不理解で短気な親」かのどちらかしか選べないのではない。子には子の視点があり、親は親の視点がある、それらは同時に並び立つことができる。視点の転換さえすれば、「自分を困らせるわがままは子」という見え方から解放される。(意訳)

みたいな文章を読んだことがあった。それに似ているような気もします。
「ルールを守ってほしいと思っている自分」に気がつくことで、他者に対する「ルールを守らないわるい人」という見え方から解放され、場を俯瞰して見ることもできるようになる。そうすれば即座に強い言葉で指摘する以外の選択肢も考えつくかもしれない、なあ〜

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