諸々の虐殺、理不尽、不正義、不寛容、無知、排外主義に耐えられなくなり、ツイッターを開かなくなりましたが、しかし、開かないで目を背けることも、見てるのと同じくらいつらいね。「それができる」ことに責められてる気持ちになるし、それは責められて然るべきものなので、避けられない。その中でせめてそれらに直接連なる句が書ければ多少は慰みにもなりますが、できるのは木犀がどうだとか月光の精算機だとか、遠い遠い遠いものばかりで、とても現実的ではない(というか拠って立つ世界がとても現実に思えないので客観写生句のようなものが浮いて見えてしまう。俳句は悪くない)。俳句は不自由な詩型で、その不自由さこそ自由を得る足がかりになると思ってるけど、僅か9000キロ先の虐殺を無視して、それをやることを自分の俳句に許すのか。しかし無視をせず向き合ったとしても、足る句ができるわけではない。
書き出してみると、そういうことに悩んでいる。
書いたということは、気持ちの墓碑みたいなもので、自分の場合、ある程度割り切らないといけないと分かっているということで、やる。