「儒教は宗教でない、是は一種の政治機関の教育のようなものと言う。(中略)神道と言ても世界が宗教とは認めないから仕方が無い。(中略)寧そ宗教は無いと言おうといったところが、(中略)西洋で無宗教な人間はどう映ると思うか、(中略)獰悪で、智恵を持った虎狼のようなものは、黙って置くとどんな悪い事をするか判らぬものとされている、(中略)基督の福音を聞かない者は先ず人間では無いと西洋人は思うて居る。」(久米邦武『久米博士九十年回顧録』1934)
1871年の岩倉使節団のエピソードだけど、神道にいるとこの感覚を正直150年経っても感じることが多い。
異教徒(多神教)への蔑視の上にアジア蔑視が乗る、そしてそれを内面化した宗教ノンポリの(所謂)ニホンジン/アジア勢が神道や新宗教叩きをする、というめんどくさい構図。
私個人としては、神道(呪術)はタイミングや条件や自分の属性を問わず「いつかじゃなくて今これをどうにかしたいんだよ今今今ジャストナウ!!」みたいな時に科学同様(呪術は道具なので…)めちゃくちゃ頼りになるものだと思うし、世の中にある様々な技術や学問や知識の中で「科学的根拠(検証され反証されず再現性がある」という狭い定規って、一体どんぐらい厳密に適用および運用されてるもんですかね…?と思うよ