『ブラックパンサー:ワカンダ・フォーエバー』、観る側が前作主演の逝去を踏まえていることが前提になるという点は今の我々からすると当たり前なことなんだけど、後世からしたら随分ハイコンテクストなことなんではないか。
ただ前作主人公が死亡しただけならこんなただひたすらに「前に進まなきゃ」を言い聞かせるだけで成り立つような物語にはならんはずだし。
最近の色々な作品を踏まえなくてはいけないというMCUのハイコンテクスト化は単に数の問題であって、本作の方が「観客全員がチャドウィック・ボーズマンの死を共有している」ことを求められる点ではよっぽどハイコンテクストではないかと思う。あの訃報の衝撃を知らない30年後の初見の人はこの進まないといけない重みがどれくらいわかるのだろうか。
前提条件から考えると、本作はチャドウィック・ボーズマン=ティチャラの死から始まる喪がどう明けるかの物語である以上、「戦うべき敵との戦闘」というMCUフォーマットがとても邪魔だと思ってしまった。そのフォーマットはMCUの商業主義的側面そのものであるし、死を悼むからこそ「戦い」のない物語でもよかったのではないか。
後、やっぱりワカンダって国に魅力がないということを痛感してしまった。
前作を観た時からすでに「物凄い科学技術を持つ国を王が治めている」という設定に魅力を感じなかった。技術的に超先進的であるのと同程度に、政治システムも先進的であって欲しかったというか。
本作では王の私情が根っこにある戦で、「死」傷者が出ていたんだがそれは顧みられることは最後までない。アベンジャーズ2以後でも指摘された巻き添えではなく、王の命に従って死ぬ。(作品そのものよりは演者の発言の方が大きいが)リベラリズムを志向している中で、ひとりの権力者に統治されてる国というのもどうなのかという。
まあ、この辺りの評価の辛さは1作目のキルモンガーが魅力的すぎたのもあるのかもしれないが……
自らの似姿である敵との戦いというテーマも本来はそれ単体で語るべきテーマだと思うのもあり。ただ、好みで言えば前作よりもずっと好きだし、映画としてよく練られている部分があったのも事実だと思ってはいる。
ただ、ワイスピ7でブライアンを「生きている」ことにした映画の神様に愛されているラストと比べるとねってのはあって(途中まで撮影できてた違いは勿論あるが)。物語上も死んだことにするなら=物語として消化してしまうのなら=商品にするのなら、MCUのフォーマットに乗せない方がよかったのではと思ったのが多分この引っ掛かりの根っこにあるんだろうなと思う。