「野党が、修正案に合意させたうえで賛同する」ことの是非を、昨日から考えている。

離婚後共同親権の「修正案」をちゃんと確認したわけではないけど、報道や日本共産党議員のツイートなどで垣間見る限りでは、〈共同親権の選択について、「父母双方の真意」を確認する措置を検討することを付則に明記する〉ものだという。
jiji.com/jc/article?k=20240411

付則って確か強制力がないのではなかったか。しかもそこに書くことも「検討」だという。

付則にまったく何の意義もないとは思っていない。問題点を文書として残すことは重要だ。「衆院での議論とこの付則をてこに、参議院でさらなる修正を求めることも期待できる(期待するしかないというニュアンスだろうけど)」と書いているひともいる。

あともうひとつ、立憲民主党が自公維との「合意」の「輪」に加わっていなければ、維新からもっとひどい「修正案」が出てきた可能性もあるのではないか、という想像もできる。
“LGBT差別増進法案”で維新と国民民主が持ち出した修正案が内容を著しく後退させたように。

原案をよりひどくすること「だけ」はしない、という点で、立憲民主党が修正案という妥協をすることの(直接的な)意義もあるのだろう、と考えることはできる。

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ただ、結局のところ、その修正案はこの法案の問題を根本的に解消するものではない。

この法案は弱い立場にいるひと(特に子ども)の生活や権利や尊厳、命、つまり人生を奪う力をもつものだ。
そこが解消されない限りこの法案を通すべきではない。そして、そこを解消するような修正案を、自公はのまない。

そう考えたときに、こういう法案に断固として反対するという姿勢そのものを示すことの意義は決して小さくないと思う。

それは「潔く散る」とかそういう話ではなくて、「弱いひとを見捨てない政治をする」という姿勢をもち続ける政党かどうかを示せるかどうか、という話だ。

もちろん、反対を貫き通すだけではなく、なんで反対するか、自公維がいかにクソか、この法案がいかに問題か、ということを、あらゆる方法で政党自ら何度も何度も伝える努力をしなければならない。

沈黙を貫き通そうとするマスメディアをあてにするのではなく、「わかるひとだけわかればいい」というような待ちの姿勢でいるのでもなく、あらゆる媒体を使って言葉を尽くして説明しなければならない。
根本的に「反対ばっかり言っている政党だとみられたくない」みたいな寝言も捨てる必要がある。

でもそうして、だめなものはだめだとするしかないこともあるんじゃないのか? ひとの命は駒じゃないんだから。机上で%で語れるものじゃないんだから。
私はやっぱりそこから動けない。

衆議院においても尽力していた立憲民主党の個々の議員がいることはもちろん知っているけど。

……というようなことを昨日から書いては消し、書いては消し、最後は「消し」で止まっていたのだけど、今日の衆議院法務委員会で、立憲民主党の寺田議員が自分の時間の最後にまさにそのことを話していて、端的に言って腹が立ったので投稿しとくことにした。

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