拡散不希望だが、意見を書いておくか……
教養って現代的観点からみれば、任意の一定の範囲の知識やそのアクセス手段のパッケージ、くらいまで抽象化されている。国家が要請するなどの要素は希薄になっており、ただちにはナショナリズム的な色彩を帯びない。が、そうした任意性によってイデオロギー性はむしろ増しており、どういう属性の誰がリーダーとなってどのようなパッケージを提出するかをめぐる闘争が絶え間なくある。そのためTwitterなどではしばしば、さまざまな嫌味が言われている。
実際問題として、新しい情報(以降、文芸作品を例にする)を受け入れる態度を培うために、ある範囲での一定の見識を得ておいたほうがよく、教養の吸収は避けられない。『必読書150』ではないが、文芸作品に関しては150という数字自体は妥当に思われ、おおむね一定範囲のものを100〜200個鑑賞することで見えてくる地平は、私自身の経験から、確かにあると思う。そうした必要性はあるが他方、大きくは出版物、公開ブログなどを経て、先達との直接の会話からそうした教養養成の方針が伝授されるとき、そこには「教える・発信する側の権威」が伴わざるを得ない。それを発信者・受信者の双方が理解し、権威性を意識することで「操作」できるようにしたい。