拡散不希望だが、意見を述べておくか……(ので公開トゥート)。
まず前提としてどんな表現も、なにか特定のシーケンス(プロットが身近だがそれに限らない)に還元しようとしたときに、必ず余剰をもつ。それはしばしばmedium specificityに関連する。その余剰を削ぎ落として、望んだシーケンス「だけ・純粋に」取り出せるのかというと、そこまでは言えず、パキッとは分けられないし下手をすると相互依存している。
が、それは区別ができない・還元作業が失敗するということではなく、100%完全でなくてもやはりメディア横断的な本質っぽいものを抽出できる。でなければアダプテーションとか無理である。
で、いくらなんでも意地悪な言い方だとは思うけれども、少し気の利いた鑑賞をしたいときに、medium specificityに関する論点を見つけようと初めから構えて、鑑賞がそれに引きずられてしまうことはないか。恒常的だとそうした傾向自体に気づきにくくなると思う。
思うにそういう場合、ミクロスケールの表現か、作者・読者概念といった最大スケールかに注目が偏りがちではないかと思う。それに加え、そこそこ広域なシーケンシャルな表現(プロットなど)という中間的なスケールの現象にも平等に目を向けることが大事なのではないだろうか。(社説)