だれも「ぼくの自説の開陳」など望んでいないということをあらためて確認しないといけない。授業の話。
学生の側に「問い」があって、ぼくの話が「答え」に対応していれば、ひょっとすると響くかもしれない。でもそれを抜きにいきなり「自説の開陳」が行われても、寝るか、無視して別のことをコメントするかになる。
授業でぼくができること(やるべきこと)は、学生が議論し続けるための文脈=「問い」を示すこととなんだろうと思う。「答え」はいろんな意味でそんなに必要ではない。
ちょっと話が飛ぶけど、いまのSNSの非対話的な状況も、この「問い(文脈)」が共有されているかどうかの問題なんだろうと思う。みんな「(自分の文脈での)答え」ばかり書いていて、おたがいの違いを皮肉っている。「答え」どうしは相容れにくいので、対話的な議論になりにくい(それはときに同じ「右翼」どうし、「左翼」どうしであっても)
必要なことは、どんな「問い」まで戻ったら認識を共有できるのか、あるいは新しいどんな「問い」を立てうるかというところなんだろうと思う。でも現状はおたがいの「答え」が「間違っている」ことの指摘に時間が費やされている。たぶんこれでは「答えの変化」は生まれない。
論理的に「正しい」立場は片方に決まるのだろうけれども、だからといって相手の「答え」が「間違っている」ことを指摘したところで、相手は「答え」を変えようとはしない。それは教室という、かなり長時間会話が行われる(しかも権力勾配もある)場所でもそう。だとしたら、別の方法を考えないといけない。
ただ、仮に立場のちがうもの同士で、共通の「文脈=問い」を立てようという機運が高まっても、実際にそういう議論をするのはおそらくSNSではむずかしいよね……
という「自説の開陳」でした。SNSなんでチラ裏でもゆるしてください。
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