古文漢文をなんて国語科でやるの、といわれたら、きのう紹介した論文にも書かれているけど、「古典という別の時代のフレームにふれて、自分の『当たり前』のフレームを見直すことができるから」ということがあると思う。とくに古典であれば時代を隔たったテキストであるぶん、書かれた当時の「当たり前」のフレームとのずれや、それぞれの時代の解釈(注釈)にふれることもできる。それだけ「読む」という行為について考え直すチャンスが多い。

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「それが『日本』の原形を表わすから」みたいな主張は、あまりに素朴にいまの日本の版図を過去の地図に投影しているので賛成しない(源氏物語が書かれたころ、北海道・沖縄は当然ヤマト民族の土地ではないし、東北だって蝦夷との争乱があるからだいぶ雰囲気がちがう)。むしろ「いまの日本ではない日本語」にふれることの意味の方が大きいと思う。

(「いまの日本ではない日本語」という表現も、素朴にひとつの「日本語」を想定している点で、大いに問題があるけど。言語の時代による変遷とか、方言とか、そういうのを脇においているので……)

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