小学生の頃、夏休みの宿題には必ず「平和新聞」の作成があった。
おじいちゃんやおばあちゃんから戦争の体験談を聞いてA4用紙にまとめてきましょう、というありがちな宿題で、うちは父方の実家は遠いし田舎だし空襲もなく、母方の祖母は終戦時10歳で「お腹が空いた」以外の話もなく、毎年母方の祖父に話を聞いていた。
多分低学年の頃だと思うんだけど、祖父が空襲に遭ったときの体験を手紙に書いてくれた。
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『戦争の思い出話 おじいちゃんの手記より』
昭和十九年×月×日夜 名古屋にて
警報の音で起こされてみんな同級生と外に出た。先生の引率で運動場に案内された。敵の飛行機が爆音をたててとんでいる。日本のサーチライトが敵機を追いかける。残影が見えた。敵機は焼イ弾を落した。花火のように広がった。焼イ弾が地上や屋根を直撃する。焼イ弾が発火する。消火することができない。あぶなくて近よれないのだ。みるみる内に家、工場が燃え上って行く。日本の飛行機は姿を見せない。戦争はいやだな、恐ろしいもんだなと思った。私達のいた工場も爆撃で、数日後になくなってしまた。大勢の人たちが××××××××(黒塗り)働いていたのにみんなどうしてるんだろうな。私達は故郷奈良に帰った。
戦争は八月十五日に終った。これから平和な日が来るだろう。』
総務省によると、名古屋には昭和19(1944)年12月13日から翌年4月7日までの間に7回の空襲があった。そのどこかにじいちゃんも居たはずだ。
黒塗りの箇所に何て書いてあったのかは読み取れない。『戦死したのかな』『殺されたのかな』『死んでしまったのかな』……どれかを書こうとして、結局違う言葉にしたような感じがする。きっと、じいちゃんは孫にそんな言葉を教えたくなかったのだろう。
未来永劫、そんなことばを使う日がありませんように。じいちゃんの黒塗りの手紙を見るたびにそう思う。