ンゲキの(눈_눈)ちゃんを演じた人が「クロードと一緒に」という、内容的に自CPに近い人間関係が読み取れる作品で主演するというので観劇。
スリル・ミーよりも前に書かれた戯曲だそうだけど上演頻度は低め?ぽいのね??
なるほど勝手に自CPを重ねて見たりも確かにできる。
言葉にできないけど確かに強く、魂の所有権の境界を無くすような瞬間を持った関係、とかとか、ついリンクしてしまうキーワードがいくつも重なる。
こういうエモみを個々に味わうのは全然ありだよねと思う。
ただ、今は世間がかなり性的マイノリティへのバッシングが盛り返してきてしまっているご時世だから、エモよりも「言葉にできない感情」にならざるをえなかった彼らにとっての現実に思い馳せてしまって、ロマンとしてよりは、やっぱり60年代後半当時の被差別者の悲壮が重たい作品だなと思った
美しい彼との美しい思い出が束の間のもので、美しい壮絶な形で閉じるのは、エモというよりは、やっぱり人間社会に持ち込めないものとされているゆえの悲劇の重さですねえ…
エモに走った演出じゃなかったと思うので、時代背景設定的にも、多分こういう汲み取り方も目指した芝居づくりだった気がする。
世が世なら、出会ってイイ関係になって、あー超好きだし身体も最高だけど、でも生活合わないな~とかで喧嘩しつつ別れたり、主人公が何かしらの社会的な支援を受けて身体を切り売りしない人生を自力で獲得したり、もしかしたら復縁したりな関係になる未来もありえたかもしれないんだ。
「言葉にしたら陳腐」はちょっと迂闊に言えない言葉だなあとつくづく思った。異性愛ならすぐに言葉にアクセスできて、考えたり問題を解決したりして、健康的に社会の中で存在しえたはずじゃないのかなとか。そういうことを受け取りましたです
ちょっと自戒的に思い出してしまったのが、やっぱ自分、かな~り昔から二次創作で♂♂CPやってたんで、「禁じられた恋だからこそエモい」という言説が一般的に言えちゃってた時代を経験してるわけですよ。
今はもう、それは乱暴な言葉だなと理解できるようになって、「そういうエモの感じ方ができなくなって世知辛い~」ていう人もいるかもしれないけど、自分は寧ろ作品の奥行をより受け取れるようになった気がする。
文脈次第で「言葉にしたら陳腐」をエモに描く物語はいくらでもあるけど、これの場合は、言葉にできなかったゆえの悲劇で、そのためにあの前半のイライラ問答があるのかなと