「味つけの通俗的なフィクション(たとえば多くの人というか特に男性の欲望丸出しなステレオタイプなキャラがわちゃわちゃする感じの)はただの『なぐさめ』にしかならない」というのと、「味つけの通俗的なフィクションによる『なぐさめ』がどうしても必要な人や場合というのは存在する」というのは同時に成り立つ。
「公の表現ではポリティカル・コレクトネスを意識しなければならない(場合が多い)」のと「ポリティカル・コレクトネスに沿った表現でなければ存在できないのは不自然である(し、むしろ不健全とも言えるかもしれない)」のとが両立するのとたぶん同じ。