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「俳句の写生論」を「絵画論」や「写真論」と引き並べられると、いつも「なんだかな……」と思う。「言語」を使っている以上「抽象」なのだけれど、その根本が無視される(細かく綿密に描写しても、それは「写実」ではなく「情報の多い抽象」なのだ)
「写生」という言葉がそもそも誤解を生む。「写す」ことを目的としていないし、言語である以上「写し得ない」のだ。
そうではなくて、読者の脳内に景を、像を、言語によって打ち立てること。なめらかさ、ラフさ、その遅速。共通理解への信用度。おおよそ定型に寄せて書くこと。
この「定型に寄せて書くこと」の意味が透明化されやすい(絵画で言えば「三次元を二次元で書く形式的縛り」が近い。透明化されやすい)
何を書くかも大事だが、「どう言語表現で書いたか」を軽視した「俳句の写生論」は机上の論として薄く思える。

「私が書く”天道虫”とあなたが想起する”天道虫”は別のものだが、ありありと飛ばせてみせましょう」というのがいわゆる「1%の写生句」なのです。

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