→西洋的な政治的共同体の特徴は、肉と身体の分離を徹底し、残りのものを純粋に排除しようとする執拗な欲望にある。たとえばヒンドゥーのカースト制度は、残りのものにパーリアという独特のポジションを与え、「両価的な排除的包摂」によって共同体を安定させてきた(と、ロゴザンスキーは4章において危うくもある論理を展開するーーヒンドゥー世界において穢れたパーリアはおぞましくも神聖な存在として不可欠な存在なのであり、西欧的な階級とインド的なカーストは歴史的に別物である、そもそもカースト制度という侮蔑的な呼び方自体が西洋中心的であると。ちなみに日本語版序文では、日本中世の部落民についても言及がある)。しかも西洋的な身体=共同体は、肉の排除を供犠によって純粋に実現し、完全なカタルシスを得ようとする。そこに全体主義、民族浄化、追放、絶滅などが生じる。「それゆえ「最終解決」を実施したこと、それを代表しているとみなされた者たちを完全に殲滅することによって異質な残余【レスト】の根絶を実施したことは、西欧文明を創設する制度化のなかに、つまり残余を残さない供儀のユートピアのなかに根づいているのだろう」(150頁)。

 →さらに共同体を安定させるのは、現代においては特に、触覚的なものを抑圧した視覚的なものであり、スペクタクルを介したイメージの力である(24頁)。現代の政治的身体は「スペクタクル民主主義」である(28頁)。

 →……とはいえ、肝心の、政治的身体に抵抗する「肉の共同体」「脱身体化した民主主義というユートピア」(53頁)という概念については、なかなかうまく捉えきれず。デリダの来るべき民主主義論やルフォール~アバンスールの野生の民主主義論を参照してその可能性が語られるのだが……。政治的身体=身体的共同体が危機に陥り解体されていくところに、「肉の共同体」「肉の民主主義というユートピア」の可能性が現れる(18頁)……らしい。それはナショナリズムの手前にあるような、ナチズムと出自を同じくしながらもそれとは異なるような、「出生の共同体」(36頁)と呼ばれるものらしい。「出生」とは、親子関係や兄弟関係を絶対化するのではなく、あるいは生まれの国籍や民族の血を絶対化もしないような概念であるらしいが……。そしてそれを「世界民衆」というユートピア的な存在(38頁)とも言っている。やっぱりよくわからないな。

 →肉の民主主義、肉の共同体についての具体的感触を得るには、コロナウィルスのエピデミックについて論じた時事的な6章が重要であるように思えた。ルゴザンスキーは(微妙な言い方で)マスク反対派のようなので、微妙な感じもするのだけれど……。コロナウィルスは、他者にも自己にも触れるな、接触するな、他者とは私が殺しうる存在だ、という「レヴィナス的」なウィルスであると。歴史の中で抑圧され無視されてきた触覚こそが共同体の基盤として大事なんだと。そもそもアリストテレスは触覚において思考することの重要性を述べた。そしてデリダの自己免疫疾患的民主主義の中にルゴザンスキーはダブルバインド的な可能性を見出す。つまり肉の民主主義的共同体とは、どうやら、接触的触覚的なユートピアのようなものらしい。身体的イメージに疎外される前の、肉の政治的共同体。しかしこれはどうなんだろう?

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@sssugita この数日のコメントで買うかどうか迷ってた本を数冊買うことにしました笑


katakamiさんのトゥートを見かけて読んだ『大いなる錯乱』面白かったですよ

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