学問の自由、大学の自治、といった概念を「知らない」一般人が増えてるという指摘に深くうなずいてしまった。
国民の無教養化…といったら何だけど、一般教養はやっぱり軽視しちゃだめだし手放したらいけない。教養レベルの低下とともに何が自分たちの自由を削いでいくかを判断する力も失われてきてるんじゃないだろうか。
国が大学を侵食するとき、あなたが侵食されているんだ、という加害/被害関係が理解できない。ともすれば無関心、悪くすればわけわからずの快哉を叫んでしまう。
そして国権親和的な大学当局がそこに乗っかる。どうすりゃいいんだろうね。
あるいは、大学の自治なんか知らない人は過去にも多かったけど、「知らないものへの畏れ」の気持ちが今より一般にあったのかもしれない、とも。
知らないけどたぶん大事なことなんだろ、と思っていた人々が、知らないしどうでもいいだろ、と態度を変えた。そのことが国家権力にとっては大層都合がよかった…という組み合わせなのかも。
なぜ態度が変わったかといえば、そこにはインターネット、そしてSNSの影響が大きいのかもしれない。想像以上に。
どんな人物も一見並列にアクセス可能な存在になり、政府のいわゆる要人は見かけ上身近になり、国家権力の暴力性は見えにくくなった。
その国家権力に対峙する別の権威だった大学は、まさに対峙する対象の大きさゆえに尊重されてきた面があったと思う。
その大きさが見かけ上小さくなったことで、いわばはしごを外されて宙に浮いたのかもしれない。そして関心は薄まった。
その無関心の中で今、大学自身が存在意義を手放しそうになって揺らいでいるのかも。