フォロー

理由は色々考えられるけど、日常的政治参加の機会が絶無であること、デモ活動により実際に成果が上がったケースが少ない(あっても取り上げられない)のは大きいと思う。国会囲んで抗議しても無視されるんだから、普段政治的権利に無関心な人たちは「余程馬鹿な主張なんだな」と見る。

自分が("自分"の主体的肝心の外の物事について)何かしらの"責任"を問われたり、その「無自覚にも拘らず(構造的に)押し付けられた責任」に基づき価値を"判断しろ"と迫られることの"鬱陶しさ"は理解できます。選べっつったってそもそも「そこに並べられているオプション自体」を選んでねーよ、という。その上でようやく重い腰を上げて選挙行こうがデモ行こうが目に見えた戦果は挙げられないとあれば無力感に基づく無関心の鎧で自らを守る、ことによって社会状況を悪化させていく、その割はいずれ自分も喰わされるがまあどの道死ぬしなというところで、およそ主体的判断とは言えないような受動性を発揮し、ひとまず「市民的義務」を果たす機械になるつもりでただの頭数となりに虐殺反対デモへと足を伸ばしています…笑

@mican_parsley それでも行動するのは素晴らしいと思います。デモなんてのは頭数になれればいいのではと(私も何もしないで歩いてるだけ笑)

本当に、ほぼ無意識で「頭数」になりに行ってるだけですね。イラク戦争の頃はそうではなかった。高校生だったし、アメリカに殺される「無辜の民」に心を寄せていたけれど、今はまあそもそもの出発点が「(社会がどうあれ生の苦しみは生まれさせられることそのものに根差す以上)生むな」であるというのは大分大きい訳ですけど、そういう個人的な事情を出来る限り捨象したとしても、現在進行形の「虐殺」への感度の鈍さは何なのか、むしろ情報として与えられるものの精度は上がっている筈なのに、と思えば、それは「物語にならない虐殺」だからではないかと思ったり。教科書の中の"虐殺"は価値が予め決まっている。それは悲劇という「物語」だ。しかし今目の前で行われている虐殺については、起こっていることそのものではなく、それへの対し方という「価値」を自ら判断せねばならないという主体性を問われる。そのことは、確かに人々に"戸惑い"をもたらしているのだろう、という予感はあります…

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。