All Lives Matterの作文の件
https://www.moj.go.jp/content/001393368.pdf
ここで全文読める。
作文そのものはこどもの率直な感想で、それ自体尊重されないといけないと思った。6歳からアメリカで暮らし、フィリピンミックスの先輩とアジア人としての不安を分け合ったことのある子。
この子がこどもの心で「アジア人も不安だったよ」と言いたくなる気持ちにバッテンは付けられようもない。「ブルーカラーの多いブラックの生命の危機ほどじゃないんだから、ハイクラス家庭のジャパニーズのこどもの不安くらい我慢しなさい」と言ってしまったら終わる何かはある。私はそういうことを知っている。
だからやっぱり、大人が政治的な意味を教えてあげなきゃいけないシーンだと思う。
All Lives Matterということばの政治的な意味を知らない子がそのことばを使ってはいけません、というのを教えるのは大人の役目。
そのことばそのものが白人至上主義者に奪われてしまったんだよ、悲しいことだけれど、と教える役目。
そしてもし、その子が「こう書けば白人社会で迫害されない」という学習をしかけていたら、そうじゃないんだと教える役目。
All Lives Matterの作文の件2
一方で、審査委員の落合恵子氏のスタンスには全く賛同できない。
ジョージ・フロイドの死を引用し、
「踏まれた側が声を上げなければ踏まれっぱなしの状態」
という。
そんなわけがない。ジョージ・フロイドは白人警官による暴力により死んだ。それは「言われなければ気づかない」わけがない、能動的な暴力だ。自分の筋肉を動かし首を絞めたのだ。この暴力を、言われなければ分からないってなんだ。
声を上げるコストを弱者に背負わせてる、としか見えない。
見えない差別、無意識からくる差別は声を上げる必要がある。それは分かる。
でも、ジョージ・フロイドの死はそれこそ、隠すために能動的な努力の必要な差別だ。まさにBlack Lives Matter をAll Lives Matterで覆い隠そうとしているように。
隠された差別と能動的な暴力を一緒くたに扱う意味って、私には非常に邪悪なものに思える。