金曜日の夜。丸の内界隈は、仕事帰りらしき人々で溢れかえっている。こういう雰囲気はちょっと落ちつかない。
フリーの映画ライターというおれの仕事は、試写会や取材などをのぞけば基本的に在宅勤務だ。きょうは打ちあわせがあったから有楽町まで足をのばしたけれど、平日の、ましてや退勤ラッシュの時間帯にオフィス街を歩くことはほとんどない。
北から南へ。東京駅の真正面を横切って、南口そばのキッテに入る。そこもまあまあ買いもの客が多かったが、エスカレーターで二階に上がると、人はぐっと減った。
キッテの二階と三階にあるインターメディアテクは、大学の収蔵品がところせましと並べられた博物館だ。入場料はかからないけれど、かと言って無言のまま入るのも気がひけるので、受付のスタッフになんとなく頭をさげてエントランスを通るのが癖になっている。
ごゆっくりどうぞという声に背中を押されるようにして入った展示スペースは、望んだとおりの静けさが広がっていた。
「……………」
気が楽になって息をつく。退勤ラッシュ時の東京駅は、おれには少々にぎやかすぎる。
ビルの外観こそあたらしいが、ここの空間はレトロモダン風にしつらえられている。もとは東京中央郵便局の旧局舎で、その一部を当時のまま利用しているからだ。
博物館にしてはあたたかみのある色合いの照明、古い傷がいくつも残る木張りの床。標本や鉱物などは、眺めるだけでじゅうぶん楽しい。あまり混むことがないのも、好ましい。
東京駅付近で時間をつぶすとき、おれは大抵ここで過ごす。ミンククジラの骨格標本の前で、何時間でもぼうっとできる。
(───あいつはどうかな)
あいつは、にぎやかなところでもやっていける男だから、こんな場所はきっと退屈だろう。
きょうの打ちあわせと苦手な人混みで、疲れているのかもしれない。思考が妙にひねくれてしまう。
そんなことを考えていたのと、床板のきしむ音に耳を傾けながら展示ケースのあいだを歩いていたせいで、背後から近づく気配にまったく気づかなかった。
「……だーれだ」
「!」
とつぜん、目の前が暗くなる。聞きなれた声がする。
「…………」
視界をてのひらで塞がれたのだ。
そう気づくのに数秒を要するくらい、おれは驚いてしまった。驚けば驚くほど派手なリアクションができないタイプなので、傍目にはごく冷静に見えたかもしれないが。
こんなクラシックすぎる手口を照れずに堂々とやってのける男、この世でひとりしかしらない。
「…………だれだろうな」
「当ててみて」
気取ったささやきと一緒に、つむじにくちびるが押しつけられる。
「まったくわからない」
「やだなぁ。さみしいこと言わないでよ」
男は愉快そうに笑い、調子に乗って耳の裏やうなじあたりにまでキスしはじめた。
「おい、待て……くすぐったい」
「ほら、がんばって思いだして」
「わかった、思いだしたから。光忠、みつただ」
おさえたボリュームで名前を呼ぶと、ようやく視界がひらけた。
うしろを振りむく。両手を上げて降参のポーズをしたスーツ姿の光忠が立っている。いたずらっぽい笑みを浮かべて。
「怒った?」
「怒った」
「ごめん、はしゃいじゃった。待った?」
「いや、おれが早く着きすぎただけで……あれ? 丸善に行ってからここに来たのか?」
「ううん、直接こっちに来た」
「はあ? なんで……」
「だって広光、前に言ってたでしょう、ここが好きだって。駅の近くはだいたいどこも混んでるから、もしかしたら人がすくない場所で時間をつぶして、それから丸善に戻るんじゃないかとおもってさ」
「…………」
光忠の簡潔な説明を聞いたおれは、ずいぶん間の抜けた表情を晒してしまったようにおもう。
胸の内側がむずむずする。おれの内面を想像して臨機応変に動いてくれたこと、いたわりを寄せてくれたことがうれしい。でも、照れくさい。なんと返したらいいのかわからない。
光忠はキリンから視線をはずし、おれにまっすぐ向きなおってやさしく言った。まなざしに込める愛情を、まるで隠そうとしない。
こういう男と恋愛をしていることについて、ときどき、ひどく新鮮に感動してしまう。
「……家に帰れば会えるだろ」
「あはは、そうだけどさ!」
おれのかわいげの無さなど、光忠はまるで気にならないらしい。うきうきと手をつなぎ、背をかがめ、こちらの顔をのぞきこんで言った。
「ねえ、夜ごはんの前だけどさ、なにか甘いもの食べたくない? 一階の千疋屋なんてどう?」
「…………」
見抜かれたくやしさより、通じあう喜びが勝る。いつだって。
おれは光忠の手をそっと握りかえし、「……パフェが食べたい」とちいさな声で欲しがってみせた。(了)