実際「あれ? この人、発達障害では?」と思う歴史上の人物(悪行の方で)がいるんですが、その人について発達障害の可能性を指摘する文献を見たことが無いです。
エジソンやピカソや坂本龍馬は些細なエピソードまで「これは発達特性がプラスに働いた例です!」と喧伝されるのに「素人向けに書かれた本にも載っている典型症例から教員や支援職向けの専門書くらいにしか記述無い症例までコンプリートしていますが……」というこの人に対しては全く発達障害の可能性が指摘されていません。
逆に「コイツはこんなダメ人間www」と障害特性と思しき点がネタ化されるのを見ることが多く「あ、手柄を立てない発達障害者ってこう扱われるんだ」と自分のようなクロゼット当事者の立ち位置をよーく教えてくれます。
皆に納得してもらえる手柄を立ててからカミングアウトしたほうが良さそうですし、クローゼットにするにしても悪目立ちしない程度の能力が無いとネタ扱いされますね。
気をつけるしかなさそうです。
指摘しないのは現在生きている当事者を差別から守るため?
なら、成功例についても言わないでください。
我々は、大半は凡人に生まれ凡人で終わるのですから。
「都合よく障害名を利用するな」はプラスマイナスどちらにも言えることです。

歴史創作でBLやってる自分が言うのも難だけど、歴史上の人物のセクシャリティを調べ上げる「研究」に何の意味があるのか、分からなくなる時がある。
大抵そういう場合「異性愛者だった」という結論にならず「実は同性愛者だった」「多分ノンセクだった」「アセクだったかも」となるのも。
もちろん、セクシャルマイノリティがどう「発見」され扱われ、差別され、抗議し、権利を獲得したのか? 社会はどう前進し後退したのか? これらの研究は貴重なものであることに異論は無い。
でも、特定の一人をターゲットに本来プライバシーである領域に踏み込む意義は果たしてあるのか? あるとしたら何なのか?
偉業であれ悪業であれ、本来はセクシャリティとは何の関係も無いはずだ。
個人のセクシャリティに過剰に踏み込む「研究」はその無関係なものを結び付ける偏見を含むのでは、という懸念が消えない。
「同性愛者だからこんな自由な発想で〜」も「アセクだから人との温かい繋がりが分からず残酷なことを〜」も偏見と差別であるのは同じ。
新たな偏見を作らなくても研究はできるのでは……? あるいは、そういうことは文学の分野では……?
そんなことを時々考えてしまう。

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発達障害についても同じようなこと言ってたけど、どこまでが人物研究なのか、はもう少し慎重に扱われていいのでは? と思う。
セクシャリティであれ発達特性であれ、人格形成に影響するのは否めないけれど、それだけで人格全てを説明できるわけではない。
何かを説明する便利なワードにしてほしくない。

fedibird.com/@hexebleu2/112205 [参照]

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