キャラクターというものが何か分からなくなってきた話
誰か一人の人間についてどういう人間か捉えようとするとき、私はその人との過去の会話やエピソードを思い出して内的に人格を構成してからそれを本人と同一視(「私から見たあなた」)するという行為をしています。
これをよくよく考えてみると、人間にとって他者理解がとても「フィクショナル」なことであるように感じられます。
創作の中の人物にキャラクターを見出すとき、キャラクターを好きになるとき、嫌いになるとき、そのときに行っている行為とまったく同一であるとさえ思えてきます。
そして、社会の中で暮らす人間という生き物にとっては、自己の認識もまたフィクショナルなものであって、「わたし」というものは、仮想的な周囲(これもまたフィクショナルに構成された他者によって成り立っている)によって逆に構成された二重のフィクションなのでしょう。