積極的に誰かを傷つけたいとか、差別したいと思ってするより、「めんどくさい」「考えたくない」で結果的に差別や搾取が温存される現象のほうが、日本的には深刻というか、広く見られるなと最近とみに思う。
不平等について考えるってむずかしいよな。ひとりの個人を追い詰めるやりかたはよくないだろうけど、差別や人権侵害を指摘されたマジョリティの「傷つき」をどこまでケアすべきなのか。
マジョリティにとって耳が痛いことを聞かせないようにしたまま、差別的な構造を撤廃することってできるのか。
差別的構造は個人の責任“だけ”に帰せられるものではないけど、加担という意味では無関係ではない。社会とは個人の集まりなのだから
「右でも左でもない普通の(シスヘテロで“健常”な)日本人」にとってもっとも嫌なことは、「君たちの日常はマイノリティの日常と無関係でもなんでもなく、また中立でもない」と思わされることなのではと。「自分たちと『無関係』なところでは好きでやって、でもこちらの生活や習慣や意識を変えろなんて『過激』な『押しつけ』はやめろよ」って感じ
こうした「変わったほうがいい、でも自分は変わりたくない」という日本人の保守的な体質というかそうした傾向を「差別的」とまでは言えないのではと思ってきたが、「消極的差別」くらいは言ってもいいのではないかという気もする。人権問題で問われるのは、中心的で常識的と思われている社会やシステムの方であり、既存のそれらを疑うことなくマイノリティの権利回復ってなし得ないのでhttps://fedibird.com/@cutmr/111493712278433060 [参照]
「変わったほうがいい、でも自分は変わりたくない。ついでに『あなたはなにも変えなくていい』と言われたい」という欲望、気候変動やヴィーガニズムに関することでもめっちゃ言えるよな〜。「変わらなくていい」と思いたいから、温暖化否定論とか、「人間にはどうしようもない」という説を支持するんでしょ?肌感覚では、年々暑くなっていると十分実感しているだろうにさ
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