岡真理の『ガザに地下鉄が走る日』でも言及されていたが、「暴力の連鎖」などの言い回しが使われる時、そこにある「暴力」の非対称性が不可視化されてしまう問題があると思う。
70年にわたる占領と虐殺を止めることもできず、世界はパレスチナ人が何人殺されてもパレスチナ難民たちのことを忘れ去ろうとしていた。
ほんとうに「暴力」がゆるされないのなら、なぜイスラエル人に多数の死者が出る今の今まで世界はそれをゆるしていたのか。
親の代だけで終わらず、漸次的ジェノサイドにさらされ続けてきた彼人らの前で「暴力はいけない」などと言えるのか、それを言われた側が果たして世界をゆるせるのか
https://www.bbc.com/japanese/video-67855399
岡真理によれば、イスラエルによるパレスチナ人の虐殺が国際社会によって不問に処される時、同時に「パレスチナ人の命などとるに足らない」というメッセージが発されている。
単純に命を奪うことだけでなく、特定の人種・民族の死を軽く(あるいは重く)扱うこと自体、ある種の暴力ではないかと感じる。
そうして人々の尊厳を毀損する暴力は、果たしてゆるされるのか [参照]