「恋愛/セックス/結婚/生殖/家族」はすべてセットで、相手が「ひとりの異性」に集約される考え方は、本来人同士が持つ関係性を大幅に狭める窮屈なものだと思う。
まとめてセット売りしかしませんというのはおかしな話で、一部は必要ないという人がいても、あるいは複数人と関係性を結びたいという人がいても(ポリアモリー)、生きた人間同士の関係性なのでありえる話でしょう。
加えてわたしは「恋愛や性愛のパートナーが、友人や他の人間関係よりも優先順位が高くて当たり前」という恋愛伴侶規範に抗いたいという気持ちもこめて、AロマンティックAセクシュアルを名乗っている。
そうしたたったひとりのパートナー・血縁のある家族をもたない人生は、日本では「詰み」になる可能性が高い。とくに、経済的に自立して生きることを想定されていないジェンダーの人たちの場合。
でも人生の苦しみやよろこびを分かち合う相手が、恋愛性愛のパートナー・血縁者に限定されることに合理性はあるのか?
恋愛やセックスの相手でなくても、血のつながりがなくても、誰かとともに生きていける可能性を求めて、わたしはAセクシュアリティを生きている
恋愛やセックスをしたとしても、今はパートナーがいないかもしれないし、いつかパートナーと離れるかもしれない。
もちろん、ジェンダーに関わらず誰かを愛する自由は平等に尊重されるべきだけど、パートナーや血のつながった家族をもたなければ生きることに「不安」を覚えるのって、社会のあり方としてどうなんだろう。
こういう書き方は好きではないのだけど、Aセクシュアルにとって生きやすい社会を考えることは、Alloセクシュアル(“ふつう”に対人のセックスをする人たち)にとっても、より自由でゆたかな社会を考えることになるとわたしは思う。
#Aceweek
(↓のツイート、AROやACEから「女性」ではないけれどジェンダーによって不利益を被る人たち、バイナリーなジェンダーのあり方ではない人たちを排除するような書き方になっていたのが気になっていたので、書き直した。)
https://fedibird.com/@cutmr/111284765999813015 [参照]