ローマ教皇がG7会議にはじめて参加してAIの現状に不満をしめして、世俗権力者たちは国際てきに合意した規制をととのえるべきだとカトリック聖職者のAIにたいする立場をあきらかにしたそそだ。
かれらはAIのよな科学てきたいどをもつ知てき過程をにんげんと比べられるそんざいとみなしているんだろろ。そしてそれが現状はひとよりもあきらかに劣っていることから、悪魔てきな技術と評価している。
たとえばカトリック教会は15世紀にグーテンベルクが活版印刷じゅつを発明するまで印刷じゅつを悪魔のわざとして “破門“ し、ひとはこれをつかわないように求めていた。かれらは自動てきにうごく機械のたぐいを悪魔のわざとみなす伝統がある。つまりかれらにとって神のわざは “にんげん” であって、ひとが手づくりしたものと同等かそれ以上にすぐれた品しつを実現できないかぎり、それは悪質なわけだ。グーテンベルクはかれの印刷じゅつをつかって2しゅの聖書を印刷する。そのうち豪華な版はとうじの写本を精密に再現したもので、そのこころはかれの技術がにんげんの手仕ごととそん色ない品しつだと証明することだったのだろろ。でないとその後かれの発明がヨーロッパに普及したことがせつめいできない。
とゆわけで今回ローマ教皇がもとめたAI規制を国際てきに合意してすすめる
べき理由は、AIをこのまま野放図に開発しつづければにんげんの知能をこえてしまうかもしれないからではない。むしろこのままだとひとの知てき能力より劣ったままでにんげん社会にえいきょをあたえつづけてしまいかねないし、それはわるいとうったえたんだろろ。