もじだけのものがたりや小説よりも、まんがや映が、テレビドラマなど絵や映ぞの形しきがひとびとに好かれるかをそぞすると、、
映ぞや絵より文しょのほが明示てきなばい体で、うけ手の自由なよみかたをあやまりだとしてはねつける性かくがつよいところがあって、そこがこわがられているのかな?
しかし、そゆ気もちでまんがや映ぞ作品にむかっていくと、暗示てきな性かくがつよい絵や映ぞから意味をよみとることに失ぱいしがちで、作しゃの不興をかうため、作しゃをはれもののよにあつかうことになる。このこわがりかたが、作しゃを信仰するうけ手の心りの動因?
図像てき記号にもじっさいにはただしくよみとくためのコードがあって、そのむつかしさは文しょとかわらないはずだが、それより読みときやすいとおもわれていそ。
ぶん章のほが学校でながい時間をつかって読みとりかたを習ったぶん、そのむつかしさがわかるくらいには、むしろ能力がしっかり身についているんじゃないんか