原作者と二次創作の方の絵は、勿論想起はさせますが、全く同じという方が珍しい。
そこには、二次と言われようとも本人が自問自答して、本人の迷いと選択と描き続けた線なり表現があるのです。自分の人生の時間をその自問自答を繰り返し費やしたという経験があります。
作るということはそういうことです。自分の身を差し出してゆく。
好きでは勿論ありますが、楽なこと楽しいことばかりではありません。
それが「愛しい」という愛着になることもあるのでしょう。
そして「愛しい」と思えるものは。例え流行が変わろうと時代が変わろうと、その人は、なんとか生き延びさせようとする。
それが「作品」です。
「生命は必ず道を見つける」
これが、多分
ある領域に加わる作家が、己に課してゆく責任なのではないでしょうか。
それをその領域に対して誓える己になることを。
ここが、多分ゲーム等とは違って。
あれは消費なんです。
キャラを育て上げる(?)といってもまた別のお話です。
AIはゲームなのではと思うのです。
あ、どうもこの絵、このイメージ、この線は、もうちょっと...?
と思えた時。
はい
AI、次ね。
と、さっくり捨てられるのでは?
勿論、コストパフォーマンスはとても良い。
自分の時間では、何一つ贖ってないから
だけれども。
贖った方は、そうはいかない。
自分の人生の時間なのですから。
だから、少しづつ
あれこれと、また自問自答しながら
なんとか、その領域を生き延びさせようとする。
ここが
AI学習が揉めるところだと思うのです
そして、根本的なところでもあると。
なぜって、そのAI学習で作る人は
「次なる大きなその領域の飛躍」をどうやって、知るのでしょう?
それは多分
生き延びさせようとする
己の人生で贖った人達が
その私達を使い捨てにするのか?
勿論、お人それぞれなのですから。これは、あくまで一つの例です。
それぞれのお考えが、二次創作の人にもおありかと思います。
また
AI学習は絵だけでもないでしょう。
しかも、この話は
イラストのみを今話しています
随分限定的なお話です。
でも
自分(達)に甘すぎて他人に厳しすぎない?
と
なにひとつ背負わず
他人を使い捨てようと近寄ってくる人間に、笑われる謂れはない。
まあ
お分かりになりにくいかもしれません。
それはごめんなさい。
消費しかやったことがないと
分かりずらいかもしれませんね。
昨今の「コストパフォーマンス」流行りも、結局、消費しかしたことがない考えなのかもしれません。
さて、これにて。
失礼しました
#fedibird