私なんかは流行りの漫画が分からないことに定評があるのだけど(定評)、
SNSでいつでもリンクが流れてきて・CMでアニメ情報が流れて・店先や飲食店のグッズやコラボでいつでも目にするようなアート
それに関して「本当の大衆の姿」でやってくれよ、という要求はものすごく妥当だと思うのよ。だってその店にもマイノリティはいてお金払ってるじゃん
そうじゃない、深く深く潜った、数を限定したアートなんかで暴力を続けることは、私はいいと思うの。そこでは過去の残虐が生き続けるし、あり得ない甘い夢が広がってるし、想像力と思考力の遊び場で、暴力的だからこそできることがある。暴力を無いことにすると手痛いしっぺ返しがある
他人様の人権を踏みにじっても見たいものがある、
そういうのは、カーテンの奥深くに自分で取りに行かなければ。カーテンをくぐるたび、自分は人様をアレしているがそれでも見たいと、罪を刻みつけながら。
あと、
「別に日本の経済圏なんかで描かれたくねーよ」というマイノリティもいると思う。
日本の差別、経済格差や待遇格差、つっーか単純に弾圧と搾取に喘ぐ人からしたら超当然だと思う。
私は日本のポップアートが頂点だなんて思ってないので、そのマイノリティの物語が見たければそのマイノリティの独自文化を味わいに行けばいいと思う。
それでも日本のポップアートで扱いたい、と願うなら、取材して配慮して「お借りする」姿勢なのは当然だと思う。
「なんでも自由に描ける」がそもそも幻想であった、というところからスタートを切り直さないといけないなと。