持論ではあるんですケドね、
批評ってのは「作品のもう一面を見つける」ということだと思ってて、
作者が出してきた作品をまず楽しんで、その後に、「ところでこの視点から見るとまた楽しめますな」とやることだと思ってるんです。
だから作品を否定するために批評があるというの、根本的に違うとわたしは思いますヨ(批評の出自がどうあれ)。
ただ、もう一面を探していると、「敵意のある作品」の敵意を見つけてしまう瞬間というものがあって、そういうものを許すわけにはいかないですね。
もし作品を全否定することがあるなら「【わたし】を否定するために作られた作品」です。それは作者が「そんなつもりはなかった」と言ったところで「あなたは分かってないかもしれないがそんなことは関係ない」と指摘しなければいけません。
わたしは割と、作品に「人間関係」を見てるんですよね。いるじゃないですか、もとからこっちを下に見てる人って。公にでっかい声で特定属性への嫌悪を叫んでたらこっちだって「ふざけんな」って言わなかったらやられっぱなしじゃないですか。
だからゾーニングしない作品で誰かを否定する作品はもうメコメコのメコメコに「否定され返す」必要があると思いますヨ、ええ。ゾーニングしてりゃ内心の自由ですが。
だからねえ、作品を出すことも、作品を批評することも、人間関係の一瞬だと思いますネ。
高圧的な批評というものは存在していて、そこに家父長制の愚劣な特権意識を見ることができます。
しかしまた同様に誰かを痛めつける作品というものも確実にあります。それには強く反論しなければいけません。
だからねえ、そもそも【公に出す】作品・批評について、「むしろなんでそんなに気軽に出せると思った?」というのを問われなきゃいけないと思うんですよね。
作品も批評も、魂をむき出しにして公に出すことで、本来とてつもなくカロリーを使うことだよなって。
よくマンガ賞とかで「気軽に応募できるヨ🎵」みたいなのありますけど、あれがもうウソじゃないですか。消費のタマを増やしたいからって気軽感出してるけど、良くないですよね。
「じゃあ創作も批評も気軽にできないじゃないか」と言われたらそうなんですよ。覚悟がいることで、
でもそれが人間関係ですよねと。