専門ではないのでアレなんですけれども・・・別ものな気がします。
おっしゃる通り、分別というのは、社会的なものなので・・・分別の一部分として「自分自身の客観視」は、あるかもしれませんが。
今、ちょっといいたとえを思いつかないんですよね・・・
あーーー、なるほど。
まんまのキーワードで引いてみたら、怪しいフォントを使ったPDFが出て来、あまりにも読みにくいので回れ右をしてきたことです。
ネタ的に、出てきてもおかしくないキーワードだけれど、やっぱり「分別」とは、また別だと思われまする。
ただ、分別のベースにメタ認知的なものが必要・・・にはなるでありましょう・・・
社会の中に各々自分を「設置」する時、どうやっても「『外』から自分を見る」視線が発生します。
「分別を持つ」ためには、「社会の中の自己」の存在を認識する必要があり、これは、「自身を客観視する」ことに他なりません・・・
・・・こんな感じ、かなあ?
自分という位置から外を見て好きなことや嫌なことを並べ、自身の言動を全く振り返ることもない状態では、分別にはたどり着けない・・・と書いた方が分かりやすくなるでしょうか?
話しがつながりました。つながった先が深すぎて溺れそうです。ブクブク.。o○
@UkkariTako
資本主義の功罪みたいなものを読んでいて、変なところに飛ばされてしまいましただ🚀