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『遠いところ』を観ました。

沖縄の貧困と暴力と閉塞の中を暮らす若い母と子の物語。
淡く繊細で鮮やかな光と色彩で撮られている美しい映像なのに、観ている間ずっと息が苦しかった。でもきっとどこでにもある、ほんとうの、受け取らなければいけない痛みだった。

タイトルの「遠いところ」に二重の意味を感じる。アオイと海音は、「遠いところに行きたい」と言う。でもあたしたち本州の人間にとって、どうしたって沖縄は遠くて。わかった気になんて、そう簡単にはなれなくて。
あたしは「沖縄」を綺麗で都合の良いエンタメや舞台背景として消費してはいないだろうか、と考えることがある。美化でも戯画でもない、その向こうに当たり前のようにあるものを、どうにかして必ず、見つめなければならないと思う。

そして、あえてノンフィクションやドキュメンタリーやルポルタージュではなく、フィクションという表現だからこそできることがあるとしたらそれは何だろうか、と考える。

『遠いところ』の話なんだけど

ちょうど監督が舞台挨拶で上映後に登壇される回で、制作に関わるお話とか聴けてすごくよかったんだけど。

その中で、監督はもともと沖縄の人ではないんだけど、監督とか制作中枢の人たちが2018年くらいからずっと現地で対話とフィールドワークと取材をやり続けて、老若男女に話を聴き、水商売の人たちにも貧困の当事者として生きる若い子たちにも行政やNPOやケースワーカーにもとにかく話を聴き、沖縄の北から南まで行脚して実際に部屋を借りて住んだりして、役者も1ヶ月以上前から沖縄入りしてアオイ役の子なんかはキャバに体入して本物の嬢たちと仲良くなったりオバァと話して方言マスターしたり、クズの夫役は建設事務所で体験バイトさせてもらったりなんかして、とにかく内側に入り込んで作ってたって言ってて。

そうよな、この映画を撮るとしたらそれくらい真摯でなければならないよな、と。というかフィクションを作るというのはそれくらい真摯で誠実でなければならないよな、と思ったんですよね

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