「おいしさ」には二種類あると最近は考えている。思いがけなく自己を開発される他者性としてのおいしさと、文化圏など自分の足元を再確認する道しるべとしてのおいしさ。それらは、どちらも直接的に自分そのものの存在にかかわっている。
ある側面でそれが快であることは認めるし、そう思い始めてからかなり抵抗も減ったのだけど、ひとたびおいしさが規範化されてしまうと、たとえば前者では常に他者に開かれていなければならないことに、後者では素朴なナショナリズムを醸成することに繋がりかねなくて、わたしはそういうものに接近するのが怖いのだと思う。
というようなことを高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』の感想として書こうと思っているのだけどまだ取り掛かれていない。