「俳句と川柳と現代詩の違いって、"定型"とか"有季"以外にあるんですか?」とたまに聞かれます
あるっちゃある、ないっちゃない、みたいな微妙な話なのですが……。
基本的には発生の話で、和歌という伝統詩を茶化すために、いわば反-権威として「俳諧」は生まれたと思われます。貞門、談林を経て、松尾芭蕉が蕉風を打ちたて、「芸術」までに高まった。だけれど、後には月並化、陳腐化に転じていきます。
そして、明治になり、「俳諧」の発句は、正岡子規で「俳句」と近代化されます。子規は月並を嫌いました。伝統化された「俳諧」に対して、西洋の価値観を持ち込み、反-権威的に「俳句」が始まりました。
以下、私個人の考え方なのですが、この「反-権威性」を持っている「俳句」を「俳句らしいな」と感じます。主観的な滑稽から、一歩俯瞰的に眺めて、既存の価値観に対して「新味」を見出す。
もちろん、「俳句」の短からぬ歴史において、それだけではなく、さまざまな挑戦がありました。「現代詩」を「俳句」に持ち込む試みも数多くあり、西洋的なロマン主義もしっかり流れ込んできました。
また「現代川柳」とはポストモダンにおいて、網み合わさったのではと思います。
なので、「どれが俳句で、どれが川柳で、どれが現代詩なのか」は、現代においては、峻別ができないでしょう。
「俳句と川柳と現代詩の違いって、"定型"とか"有季"以外にあるんですか?」とたまに聞かれます
ま、最終的には、作家がいかなる場に作品を出しているかということになるでしょう。
私自身は「俳句の場」で提出された作品を「それは俳句ではない!」とむやみに言わないことにしています。