「一生面白い」みたいなのを見るたびに、言語表現はインフレを起こしやすく、言葉の意味の価値が下落するというのを思い出す。

これはまだマシな方で、「バリアフリー」に対して「"バリアアリー"がトレッキングにはいい」などと聞くと、マイノリティのための言葉が収奪されているなと感じる。

「どこにも手すりがあって、段差がない場所は、障害者や高齢者が自らがんばって、身体を回復させようとする意欲を奪ってしまうという考え方」という「バリアアリー」は、少なくとも、健常者に近い者たちの価値観だと思う。「自立しろ。努力して健常者に合わせろ」という発想。

なぜ、障害者ばかりに「意欲」なるものを求めるのか。健常者は「意欲」など持ち合わせなくても支障なく暮らせるのに。

こういう言葉はすぐに世俗化して、「合理的配慮/調節」の妨げになるだろう。

東京も大阪も階段ばかりだった。これ以上バリアを増やしてどうすんの?と思う。

これもよくわからん。結局、段差はどうやって移動するの?

〈例えば、車椅子を利用している場合、スロープの傾斜が急な場合、逆に利用しづらくなることがあります。

そのため、ある商業施設では、スロープの代わりに段差を設置することで、障がい者もよりスムーズに移動できるように工夫をしています。〉

障がい者に向けたあえての「バリアアリー」。QOLを上げる”バリア”の具体例 – musubi
musubi.media/2023/05/02/障がい者に向


ほんとですね。
他者に手伝ってもらって下さい、急なスロープを自力で降りるよりも階段を人の力を借りて降りるほうが良いでしょ?
ということですよね…
なんだろう、この上から目線。

@Panda 本当にそうなんですよね。支援する側が「健常者中心主義」なのではないかと思います。
障害者にとっての「自立」は、健常者が思い描く健常者寄りのものではないとの発想が要ると思います。


そうですよね。

現在、物事を決める場に当事者はいないのではないでしょうか。どの分野でも。子どもや高齢者や女性や障害者に関することを決める時、いつもそれは健常成人男性が行う。いびつです。

私、病棟での勤務経験があるのですけれど、看護計画を立てるときの話し合いの場に患者とその家族を同席させていました、彼らは当事者なので。

@Panda 当事者が声をあげることはとても大切だと思います。でも、日本の「人に迷惑をかけない」規範だと、難しいんですよね……。
健常者男性だけでものごとを決めないためには学知が要るし、学知を大切にする風土が要ります。「現場主義」はどうしても、健常者男性中心主義になる……。
学知と現場のバランスは、しっかり当事者、マイノリティーの声が反映されるかたちで進んでいくのがいいと思います。


なるほど。

学知と当事者とは重なる必要があるでしょうか。

私が老人病院で働いていた頃、当事者の入院患者のほとんどが認知症を患っていました。彼らにはもちろん話し合いに参加してもらいました。重い認知症の人でも意思はあるので、こうしたい、こうしてほしい、その意見をスタッフは受け取りました。

当事者と学知を重ねるとすると、いつまでたっても当事者がその中心に立てないのではないでしょうか。

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@Panda 私は学知から学ぶ人間で、🐌はケアワーカーです。
ケアが、いかに資本主義から搾取、収奪されているかは、就業者からは見えなくされているのかな、というのが、実際に利得ある人生の実感です。
私は学知である「ケアの倫理」によって、ケアの現場に共振して、共に戦えると思いました。

学知は、今は、机上の論理だけで動いていない、現場とともにあるし、そうあるべきだというのが私の感慨です。


すみません…話の論点を見失いました…私の知識不足かもしれません

@Panda いえいえ、論点というのはそもそもなく、並行的だったと思います。(私は「スベらない話」みたいな集約的な話より、並行的な多様性の方が創造的だと思っています)

大本で言えば、「健常者が健常者の感覚で、障害者に"自立する意欲"とか言うな!」というのが基本で、私達は共闘できると思います。

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