これもよくわからん。結局、段差はどうやって移動するの?
〈例えば、車椅子を利用している場合、スロープの傾斜が急な場合、逆に利用しづらくなることがあります。
そのため、ある商業施設では、スロープの代わりに段差を設置することで、障がい者もよりスムーズに移動できるように工夫をしています。〉
障がい者に向けたあえての「バリアアリー」。QOLを上げる”バリア”の具体例 – musubi
https://musubi.media/2023/05/02/障がい者に向けたあえての「バリアアリー」。qol/
@2d3m13
ほんとですね。
他者に手伝ってもらって下さい、急なスロープを自力で降りるよりも階段を人の力を借りて降りるほうが良いでしょ?
ということですよね…
なんだろう、この上から目線。
@Panda 本当にそうなんですよね。支援する側が「健常者中心主義」なのではないかと思います。
障害者にとっての「自立」は、健常者が思い描く健常者寄りのものではないとの発想が要ると思います。
@Panda 私は学知から学ぶ人間で、🐌はケアワーカーです。
ケアが、いかに資本主義から搾取、収奪されているかは、就業者からは見えなくされているのかな、というのが、実際に利得ある人生の実感です。
私は学知である「ケアの倫理」によって、ケアの現場に共振して、共に戦えると思いました。
学知は、今は、机上の論理だけで動いていない、現場とともにあるし、そうあるべきだというのが私の感慨です。
@2d3m13
すみません…話の論点を見失いました…私の知識不足かもしれません
@Panda いえいえ、論点というのはそもそもなく、並行的だったと思います。(私は「スベらない話」みたいな集約的な話より、並行的な多様性の方が創造的だと思っています)
大本で言えば、「健常者が健常者の感覚で、障害者に"自立する意欲"とか言うな!」というのが基本で、私達は共闘できると思います。
@2d3m13
あ。そうですね。
@2d3m13
なるほど。
学知と当事者とは重なる必要があるでしょうか。
私が老人病院で働いていた頃、当事者の入院患者のほとんどが認知症を患っていました。彼らにはもちろん話し合いに参加してもらいました。重い認知症の人でも意思はあるので、こうしたい、こうしてほしい、その意見をスタッフは受け取りました。
当事者と学知を重ねるとすると、いつまでたっても当事者がその中心に立てないのではないでしょうか。