幻聴を内側から書くような俳句をつくって句集に入れたのだけれど、「自己演出」って評を受けたんだよね。だから「作者の死」とか嫌いなんだよ。話者をいつも蔑ろにする。
〈“作者の死”がそのなかで宣告されることによって、文学は読者の手に委ねられるようになったとされ、“デクスト分析”の季節の到来を告げる批評として、あまりにも著名である。 しかし、この論文によって何が起きたのだろうか。私の承知するところでは、物語にとり、 最初の“他者”であるはずの語り手の存在が、軽んじられ、おとしめられることになった。 〉藤井貞和『物語論』(講談社、2022)
例えば、作者が自身のマイノリティー性を滲み出させた作品を書いたらときに、「作者は死んでろ! 読者としての享楽だけを消費させよ!」とマジョリティーが言うのは搾取じゃないですかね。
で、だんだん丁寧にテクストの声を聴くことすら蔑ろにして、キャラだけで遊び始める。「作者の死」という概念は一度潜った方がいいと思うけれど、もはや万能からはほど遠いよね……。
「作者にはNobodyでいて欲しい!」という嗜好そのものが健常者的な、自己の「標準」性を疑わない発想だし、「他者」の持っている声を聴く態度からは遠いよね。
マジョリティーの日常が描かれた詩歌も十分に「自己演出」なんですけどね。ロマン主義の作品は「自己演出」が基本でしょ。こっちの方はことさら「自己演出」と言われないところに、権威の勾配があるんだよね。
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