私は割りと「日々の中に小さな幸せを見つけていこう、私は」と思っていて、それは抵抗であり防御でもあると思っていているからです。
「遅く生き、味わうこと」は現状の「生産性」ベースの「速い」社会への抵抗。
現実「社会」というのは賃労働世界のことだけではなく、政治的世界のことだけでもない(なので「社会人」という言葉は嫌いです)狭義の「社会運動」から外れて休んでいるときも、広義の「社会運動」をしている。24時間現場主義だけが「社会運動」ではないと思っています。
糸井重里は「ていねいな暮し【だけ】して、政治に口を出さない【犬】であれ」という思想なので、論外ですが、休みながら、小さな幸せも見つけながら、選挙に行き、デモに参加し、政治にも物申し、パブコメも送り、少額の寄付もして、生き延びること。それもクソ構造への抵抗だな、と思います。