「科学的に正しい汚染水放出に『お気持ち』で反対するのは被爆者やハンセン病患者への差別と同じ!」みたいな言説がまかり通っているのを見てワァとなってしまった。普通に被爆者やハンセン病患者に対するセカンドレイプだろ。これらの差別はかつての市井の人々が「おおよそ正しいことだと共有されている通念」から生まれたのであり、それは今の人々が「科学的に正しければ今後もずっと正しい」という姿勢をとることとなんら変わらないわけで。被爆者やハンセン病患者を忌避することが科学的に正しいことだと思い込み、それが正しくないと明らかになったあとも、一度やってしまったことを間違いと認めることが出来ないから差別が続いてるわけだろ。
科学的でありたいのなら毎秒検証しつつ違う結果が出たとき素直に公表する姿勢が求められる(ここでいう科学的なるものは、社会がネゴシエーションをするときの価値判断の物差しの一つに過ぎず、絶対的指標ではない)。ところが、本邦の政府と社会は幼稚で未熟なので一旦やってしまったことを素直に間違いでしたと言って行いを中止し反省し被害補償することができない。なので汚染水放出したのちなにか変なこと(これは私がよく言う「AかBかではなく、誰も想定し得ない可能性C」というやつ)が起きてもそれを公表したり、認めたり、中止したり、反省し補償したりすることがすぐに出来ないと思われる。例えばハンセン病や水俣病への日本政府の対応経過という事例を見れば、そうなる可能性がめちゃくちゃ高いのがわかる。なので汚染水の放出というのは、「一度何か起きたらそこで負ける可能性の高い賭け」にベットするようなものなのである(オタクくんたちがよく言うところのコンコルド効果というやつを思い出しなさいオタクくんたち)。科学的でありたいと希求しているくせにPDCAサイクルもちゃんと回せない奴らの政策を支持するのはなかなかに支離滅裂である。
中国人韓国人が汚染水放出に反対すればするほど普通の日本人が大喜びで愛国オナニーが捗るというのが本当に最低すぎる。仮に中国政府が逆に「日本の汚染水は安全安全安全!!!食え食え食え食え!!!!」とか言ったところで市井の中国人が信用するかというとそうではないのだが、格下認定した他民族を軽んじることでしかアイデンティティを保てない日本人の大半は、それを想像する能力も残されていないだろう。「不逞鮮人」とか「暴支膺懲」とか言ってた頃とメンタリティが大差ないのである。またそれに関連して言えば、東南アジアとか太平洋島嶼国へろくすっぽ説明もせず、どこも放出に反対していることすら皆知らないという日本社会の全体的な“ノリ”も、ある意味で「南洋土人」に接するときの態度みたいなもんなのよな。核被害を被ってきた太平洋島嶼から「少量なら廃棄物を放出して良い"姿勢"自体が道義的に許されない」と言われるのは当然なのだが、大抵の日本人は太平洋の向こうに人(つまり人権を持つ主体)が住んでることを想像できていないのであった。
ここのところずっと「科学的」なる(そこにはおおよそ人文学は含まれていないであろう、真に科学的ではない)語の有害さとか、我々の社会が「過ちを認め謝罪し反省と補償をし軌道修正を図る」行為があまりにも出来ないこととかをずっと考えている