毎年この頃になると「広島」と「長崎」の「被爆地」の温度差を感じるのだ(私感。長いですよ)
九州北部の修学旅行は長崎が定番だ。そこで「原爆は浦上に落ちたのだ」とまるで「長崎」と言ってくれるな、という言うふうな人と会った。当時は意味が分からなかったが、大人になるにつれ、そこに恐ろしい差別の根深さと、戦争の別の面の恐ろしさがその言葉には隠されていたのだ。
のち井上光晴「地の群れ」を読んで「キリシタン差別」「ピカドン部落差別」と二重のスティグマを負った地域であることを知った。
実際長崎市と浦上地区の間には山があり被害を分けた。長崎くんち(諏訪信仰)と浦上天主堂(カトリック信仰)
…長崎市が広島市ほどは核兵器反対運動が一体感が持てない、盛り上がらないのもこの感覚が奥底にあるのだという。(2002年の西日本新聞のコラムより)
また「原爆ドーム」といった目に見える語り部がないのもある。意図的にGHQが消したとも言われているが、地域の温度差や差別感があったことも後押ししたのだろう。
原爆の残した傷は深い。