私たちはもっと「自分の歴史」を大切にしたほうがいいのではないか。歴史は著名な人物のみによって形作られるわけではなく、無数かつ無名の”私たち”の日々の生活の積み重ねが、後世の人々からは「歴史」として認識されるのではないか。生存という抵抗の歴史を読めば、そこには必ず「私」がいる。

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本書の企画元であるAHA![Archive for Human Activities /人類の営みのためのアーカイブ]と展覧会『わたしは思い出す』については以下リンク先より。
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駄文だろうとなんだろうととにかく書き残すこと。それらはすべて「歴史」となり、後世の人々が生を希求する際の参照物となる。その瞬間に、かつて歴史を書き残した「私」はまた生き返る。あるいは(歴史として)ずっと続けてきていた生存に、光が当たる。

オーウェル『1984年』の中で、主人公ウィンストンは独裁者が禁じた「日記を書く」という行為を通して、未来に可能性を残そうとしていたように思える。残念ながら書き始めた時点から彼は「死(もしくは消滅)」を運命づけられたわけだけど、それは肉体的なものでしかない。

書き残すことはおそらく「終わり」よりも「始まり」を意味するのかもしれない。書き残し、それをきちんと「過去」にすることが、まわりまわっていつしか「現在」や「未来」になる。だから過去を奪われてはいけない。誰のどんな記録も、記憶も、意味を見出す人がいる。

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