不謹慎とはどういうことなのだろうか?昨今のコロナウイルス騒動においてたびたび(特に:twitter:)濫用される「不謹慎」という言葉は、我々が最も恐れなければならない言論の自由を奪いうるものであるのはいうまでもない。従ってその定義は明確にするべきだ。
第一に、不謹慎というからには謹慎するべき相手というのは誰かということ、第二に、その相手と謹慎するべきという内容は本当に合っているのかということ、これを考えなければならないと思う。
例えば、自粛中にインスタ映えをしたので不謹慎だ、この「謹慎」は誰に向かっているのだろうか?そこでまず考えられるのは、1.患者、2.コロナウイルス、3.自粛者、4.自粛を呼びかけている者、といろいろあるだろうが、2に対しては謹慎してどうするのかという話だし、1に対しては忖度もいいところだ。3は見て多少嫌な感じになるかもしれないが、慎むべきほどでもないし、4も同様である(怒りはするかもしれないが)。
このように、謹慎は実は相手の気持ちを慮ることに他ならない。確かに相手の気持ちを斟酌摩る事は大事だろうが、そうしたところを言い始めるとキリがない。不謹慎とは邪魔者なのだ。
SNSをやる意味とは何か?このアカウント、すなわちおそらく誰にも見られないであろうアカウントで割とはっきりするのではないかと思う。
ではまず、「誰かに見られたい」という自己顕示欲を満たすためという説に関してはどうか?
自己顕示欲を満たそうとする、それはすなわちフォロワーやファボ、RT(ツイート及びブースト)の数を見て自分の考えに賛同を示してくれる人間がいることに満足するということである。もしこれが目的として正当なものであれば、私は今すぐにこのアカウントを消して他のアカウントに移ることだろう。
しかしどうだ、きっと私はこのようなことはしない。おそらくこのようにとりとめのない考えをまとめようとするという、SNSの本質かどうかはわからないが、そのような元でやっているというのであれば、ファボやRTを目的とすることはないで、ただこのようにインターネットに考えのメモを行わせる、そしていつか見つけるであろう誰かが反論をするというその行為に意味を見出すこともできるのではないだろうか?
そこで私は、この後者の考えに則ったこのアカウントの運用をしようと思うのだ。何れにせよ自己満足に変わりはないが。