セブンにもだし、スポーツ庁にも問い合わせた「男性」がえらいよ。えらいことだよ。
こういうのって一事が万事で、「たかがこれだけ」では絶対にないから。
そして一事が万事のなかでいちいち問い合わせるというのは、とんでもなく消耗させられること。
改善されてほしい。今回の件だけでなく、社会全体で、あらゆるものごとが、根本的に!
https://www.tokyo-np.co.jp/article/264951
水星の魔女のネタバレ
『水星の魔女』で不思議というか気になるというか、明示される現在進行形のカップルが特に出ないことかも。すべて死んでいるか匂わせの範疇。一方で恋愛規範の存在を通して、そうした関係の存在や、結婚という利害に基づく関係の存在は示されるけど、結婚と恋愛の結びつきも実は明示されず、それら全てが漠然とした家族というつながりに回収される、一方でモノガミーな関係が主軸であることは様々な点で明らかでもある。1人の人間が1人の人間を選択して親密になり、恋愛の規範は存在する一方、結婚の機能は曖昧であり、また劇中の親密さがどのような親密さなのかは読み取りに任される。
それは一体なんなのだろう。ちょっと考えたいところ。
水星の魔女ネタバレ?総評
『水星の魔女』の最終回は、『水星の魔女』がどのような物語だったのかを逆に示していた。『水星の魔女』の特にS1では様々なテーマが提示されるかに見えたけど、それらのうちどれが『水星の魔女』のテーマだったのかを、最終回は語っている。
社会を構成する資本主義の常識の外側から来たスレッタ・マーキュリーという女性が、資本主義に禁止された技術を使って魔法を起こし(歴代ガンダム的であると同時に魔法モノ的である映像)、資本主義の枠組みの中でオルタナティブな未来を志向する女性たちに奇跡を見せる。それによって、死者と生者が語り合い、殺されていった弱者の怒りを若い世代が責めるのではなく、その声を聞いて無力故に可能性のある和解を築き、同時にその新しい社会の可能性が家族という旧来の枠組みをそのままにした新しい家族が作られることで示される。
『水星の魔女』とはそのような物語であった、初めからそのような物語を目指していたのだ、と最終回は語る。あるいはそれだけはせめて回収してみせた。実際、『水星の魔女』がそのような物語であることは否定できないし、その点ではうまくやってみせたのかもしれない。
一方でそれは様々な属性への差別や関係への差別を巧みに利用し、同時に曖昧にすることで成立した物語でもあった。
福富寿一君と大包平が好きな字書き/20↑/刀hrak等BL中心/ミュ審神者/フォローは成人済の方に限ります/FRBお気軽に